2024.10.22
苦悩からの脱却 日本画家 堅山南風
近頃出張で熊本県に足を運ぶことが増え、ある作家の作品に出会う機会が増えたことに気づきました。熊本では日本画家の堅山南風(かたやまなんぷう)の作品を所有しているお客様が多いのです。全国的にも著名な作家ですが、亡くなってから44年も経つのに、地元でどれほど愛されているかを実感します。今回は、日本画の枠を超えて活躍した文化勲章受章作家、堅山南風をご紹介します。
師は横山大観
堅山南風は1887年、熊本県に生まれました。1909年に将来への希望をもって上京しますが、日展の前身である文部省美術展覧会、通称「文展」には4年連続で落選してします。しかしその後も出品を続け、1913年の文展にて「霜月頃」で二等賞となります。この背景には、日本美術の大家、横山大観による強い推薦があり、この縁から南風は横山大観に師事をします。
スランプ期
大観に師事後、今まで以上に制作に情熱を注ぎます。1915年、日本美術院展覧会、通称院展にて「作業」を出品します。労働者の群像を描いた意欲作でしたが、大観からは叱責を受けます。
翌1916年、自分の殻を破るためインドへ発ち、新しい空気を吸収した上で、1917年の院展ではインドをイメージした「熱国の夕べ」を出品します。しかしこの作品は、赤や緑など強い色彩を用いたことで「色盲」と酷評されてしまいます。
その後、体調を崩したことも重なり、極度のスランプに陥ってしまいます。
苦悩からの脱却
南風を叱責したのが大観なら、称賛したのも大観でした。
1922年に院展に出品した「桃と柘榴」が大観から高評価を得たことをきっかけに、苦悩から次第に脱却していきます。その後、日光東照宮の障壁画制作をはじめ、様々な経験を積み重ね、1957年には切手にも採用された、日展出品作「画室にて」を発表します。本作品は日本画と洋画を融合させたような力作で、日本画の新境地を開いた作品でもありました。1962年にはアメリカのニュース誌「タイム」の表紙に南風が描いた「松下幸之助像」が採用され、日本では1968年に文化勲章を受章します。
人はスランプに陥った時、一つのきっかけから、目の前が一気に開けることがあります。皆さんも何かに行き詰った時、堅山南風の作品を一度ご覧になってみてください。何かのきっかけに出会えるかもしれませんよ。