2022.03.08
自由を表現したヴラマンク
「私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。」
最後の一文は彼の墓碑にも刻まれています。この遺言の通り自らの才能を信じ、自由に生きぬいた画家モーリス・ド・ヴラマンクを紹介したいと思います。
ヴラマンクは、自由人で他人に指図されたり規則に従ったりすることを嫌っていました。なので、絵も学校などで学ぶことなく、また、師匠につくこともありませんでした。
1876年、音楽家の両親のもとに生まれたヴラマンクは両親から音楽の手ほどきを受けるも音楽家になる気などはさらさらなく自転車選手に憧れていました。16歳になると家を飛び出し、自転車レースやボートレースなどに出てお金を稼ぎながら自活を始めます。このころからほぼ独学で絵を描き始めます。
フォーヴィズム(野獣派)とは?
1900年、兵役帰りのヴラマンクに転機が訪れます。フォーヴィズムの旗手アンドレ・ドランと出会いです。2人は瞬く間に意気投合し、パリからおよそ10km、セーヌ河畔の町シャトゥーに共同でアトリエを構えます。翌年、ドランの紹介でマティスとも親交を持ち、フォーヴィズムの立役者3名が揃うこととなりました。
1905年サロンドートンヌ作品を出品し、この時出品した強烈な色彩の彼らの作品が「フォーヴ(野獣)ようだといわれるようになりました。フォーヴィズムの誕生です。
(フォーヴィズム(野獣派):原色を多用し強烈な色彩と、激しいタッチで目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した20世紀初頭の絵画運動の名称)
しかしながら、3年もすると3人はそれぞれのスタイルを模索し、異なる道に進み始めます。
生涯を貫いた、重苦しくも激しい画風
ヴラマンクはゴッホとセザンヌに影響を受け、形態のボリュームを強調した構成力のある作品を描くようになります。その後荒々しい波を思わせるようなタッチで重厚に画面を塗る独自のスタイルへと変化、色彩も茶と白を基調とする暗めに移行していきました。
自らの画風を確立したのちは、暗く重苦しい色彩ながら激しいタッチで目に映る景色や静物を描き生涯その画風を貫きました。
ヴラマンクは日本人画家とも交流を重ねていました。
洋画を志しパリに渡航した佐伯祐三は、里見勝蔵に連れられてヴラマンクに会いに行きます。ところが持参した「裸婦」をみたヴラマンクは「アカデミック!」と一喝し、1時間半にわたり怒鳴り続けたそうです。このことにショックを受けた佐伯はそれまでの作風を見つめ直し、フォービィズムの画風を取り入れた独自の画風を切り開いたというのは有名な話です。
描きたいものを自由に表現することを追求し、野獣と呼ばれたフォーヴィズム。ヴラマンクの系譜は日本の近代美術にも流れていることでしょう。