2020.07.21
皇室が愛した有田 辻常陸
佐賀県有田焼の宮内庁御用で代々続く辻家とその作品の魅力についてご紹介いたします。
有田焼のはじまりと禁裏御用窯元
みなさんが知っている磁器・有田焼は今から400年程前1616年に豊臣秀吉が朝鮮から連れてきた陶工(李参平)が現在の佐賀県に良質な磁器土を見つけたことから始まります。
有田焼の歴史に辻家が登場するのはその48年後。
この頃の有田焼は中国磁器に勝るとも劣らない磁器の製造を可能にし、オランダの東インド会社によって海外へ大量に輸出される最初の黄金期を迎えようとしていました。
『辻家時代書』によると初代市右衛門より三代目喜右衛門まで藩御用窯として佐賀藩主鍋島公により徳川将軍家や諸大名への贈答品などの製造にあたっていました。
1668年頃、『肥前陶磁史考』によれば有田の陶商より辻家の器は仙台藩主に渡り、仙台藩主より当時の天皇(百十一代霊元天皇)に奉献されました。
その後「禁裏御用御膳器一切其他御雛形を以て尚一層清浄潔白なる製品を調達すべし」と天皇より佐賀藩主へ御下命がありました。
“禁裏”とはみだりに中に入ることを禁じるという意味で「宮中・御所・禁中・内裏」を表したとえ徳川将軍でも勝手に入ることを許されなかった聖域のことです。
それ以来、宮中で使用される器はほぼ辻家が制作し奉献、今で言うと天皇家と独占契約を交わしたような状態です。
これが現在まで続く皇室との関係の始まりになります。
極真焼(ごくしんやき)
現在は電気窯やガス窯があるので灰などが被る事がありませんが、当時は登り窯等が中心のため天皇に献上する作品に灰が被ってしまうことが多々ありました。
そこで1811年九代目によって発明された焼成の製法がこの極真焼です。
一層素晴らしい製品を御所へ献上するためにあらゆる技術を駆使し創り出されました。
製品と同質の匣鉢(さやばち)を作り蓋との接触部分と内部前面に釉薬を施し焼成することで匣鉢を真空状態にします。
その結果内外の浸透と拡散を完全に遮断することで、密封され灰等が被ることなく、気品ある光沢と深い呉須の発色の製品を得ることができます。
天皇家に献上するからこそ、完璧な製品を制作する必要があり、できた製法です。
明治期~現在まで 辻家の歩み
1860年代、海外輸出を本格化させていた日本は欧米列強に追いつくため近代産業の育成と西洋機械の導入で海外進出の拡大を目指していました。
十一代目辻勝蔵は有田の有力な商工業者であった深川栄左衛門らとともに香蘭社を設立、政府の信用と取りつけフィラデルフィア万国博覧会に出品、フランスのセーブルや他各国の製品を完全に圧倒し金牌賞を獲得し、パリ万博、ウィーン万博、スペイン万博でも金牌を受けました。
その後辻家に宮内省や外務省等の政府の依頼が増え、香蘭社から独立、精磁会社を設立します。
この頃、少し前に話題になったテレビドラマ「天皇の料理番」でも放映された通り、明治天皇は洋食を取り入れる事が多くなり、必然的に洋食器の注文も増えたようです。
昭和期に入りそれまで辻家の作品や技術は非公開であったため幻の名窯言われていましたが初めて美術館や百貨店で一般公開されました。
十五代続く辻家は、現在でも天皇家に御料器を納めており、天皇家の正月や宮中晩餐会などの特別な祝事・慶事のみに御用命があり制作・使用されています。