2024.06.04
異色の才能を持つ陶芸家 加守田章二
食事の際には欠かせない食器や花を生ける花瓶。
世の中にはそれぞれの国や風土にあわせて発展した陶器や磁器の製品が流通しています。国内をとっても全国には様々な窯元があり、一つ一つに特徴あります。磁器の代表的なものでは、有田焼や九谷焼など、有名な陶器には、信楽焼、備前焼、瀬戸焼などがあります。
今回は陶器・土ものでも、その独特な風合いで人気の栃木県“益子焼”の陶芸家 加守田章二をご紹介します。
加守田は1933年に大阪府岸和田市に生まれました。現在の京都市立芸術大学で富本憲吉や近藤悠三から指導を受け、卒業後に益子の塚本研究所の研究生となり、その後益子町で独立しました。独立当初から益子焼とは異なる作風で、当時の益子焼の第一人者である浜田庄司先生からも注目されていたそうです。
新分野に挑戦
初期の頃は益子焼とは対極の中世の焼き物を模範とする、穴窯による自然釉作品に取り組みます。その後に学生時代から取り組んでいたとされる灰釉作品で独自の作風になりました。この灰釉は益子の土を轆轤で挽き上げ、還元焼成により緑青色の渋い釉調と調和し、とても深みのある出来上がりで見る人を惹きつけるものがあります。その後、焼き締めの器物の意味である“炉器”と呼ばれる作品を手掛けていきます。この作品は土肌の表情は豊かな土器を連想させるといわれており、これらを「酸化文」と命名しました。 一見してみると柔らかそうにも見える「酸化文」の土肌は、実は高火度で焼成されており、作品は硬く焼き締まっています。
曲線彫文の登場
その後、加守田は岩手県遠野市に陶房を移し、移転後発表したのが幾何学的な形態に波状の彫文が施された「曲線彫文」と呼ばれる作品です。遠野の土を使われたこの作品の文様は、遠野の風景のいたるところにある木造建築の「木目」に由来しているといわれています。この頃の作品は加守田作品の中でも、特に名作と言われています。
飛翔の色へ
1971年、これまでと一変した作品を発表しました。失透させた赤や緑、白色の釉薬を使い、波模様を器全体に描いて始まり、翌年にはより色彩豊かな作品を発表しました。この作品群は白土を用いて轆轤成形され、施釉は青・黒・黄土・灰色を組み合わせた色彩を使い制作されました。そして最晩年の1980年の代表作には半磁土を用いた菱形文の作品があげられます。赤い線で区切った菱形の文様が青・白・黒の釉薬で塗られ、色彩全体の質感に変化をつけたデザイン性の高い作品を追求しました。49歳という若さで亡くなった加守田ですが、加守田作品は現在も尚人々を魅了し惹きつけています。
加守田のような作家・陶芸家は並みならぬ努力や苦労の元、技法の習得や挑戦により、名作を生み出している事を改めて感じました。このような作品を1点でも後世に残していくことが私たちの指名ではないかと日々思っております。
皆さんの身近にある素晴らしい作品も未来の為に残してみませんか?
その想いも一緒に、私たちが出来る限りお手伝いしたいと思っています。
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