2023.12.19
激動の昭和期美術界を率引した画家 猪熊弦一郎
この三越の包装紙、昭和~平成を過ごした皆さんなら一度は目にしたことがあるでしょう。この『華ひらく』と題されたこちらのデザインは、「いのくまさん」の愛称で親しまれた猪熊弦一郎と言う洋画家のデザインで、1950年に海岸で波に洗われる石を見て“波にも負けずに頑固で強く”との思いを戦後復興のテーマで制作しました。実は猪熊作品は日本各地に点在しており、猪熊の名前は知らなくとも、彼の作品を目にする機会は多いと思います。有名な作品としては慶應義塾大学の壁画「デモクラシー」、上野駅の壁画「自由」があります。
20世紀日本を代表する画家
猪熊は香川県に生まれ、幼少期から絵がうまいと評判で、美術の時間には、先生に指名されて代わりに絵を教えていたと言われています。
1922年には東京藝大の洋画科に入学し、牛島憲之、荻須高徳、岡田謙三、山口長男、小磯良平らと同級生になり、西洋画科の助教授に就任した藤島武ニに師事しました。しかし、時代は戦時体制の真っただ中で、美術界にも文部省が美術団体を改組し始める等その影響は大きく、美術界は混乱していました。
文部省に対し異を唱え、小磯良平、脇田和らを含む9人の青年画家と立ち上がり、1936年に新制作派協会(現 新制作協会)を発足します。昭和戦前期には反官展の実力派を擁する洋画団体として注目を集め、昭和期において有力な美術団体の一つとなりました。戦後は上野駅の大壁画「自由」を制作し、新鮮で明るい色彩や単純な形を使うことによって戦後の復興を祈りました。
幅広い作風
猪熊は「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、具象から抽象へ、更に両方が融合した形態へ、1人の作家とは思えないほどの作風を持ち、常に新しいものに挑戦し続けました。初期作品は印象派の影響を受けつつ、日本の風物を独自のタッチで表現していた作品が多く見受けられました。画風に大きな影響を与え始めたのは戦前1938年より訪れていたフランスでの出来事がきっかけかもしれません。当時、アーティストはフランスで勉強するべきだという風潮があり、36歳の猪熊も妻を伴いフランスへ渡り以前から交友のあったアンリ・マティスに師事します。マティスに自分の絵を見せたところ「絵がうますぎる」と言われ猪熊は技巧ばかりで独自の画風が確立していないことにショックを受けました。自身がこれまで影響を受けてきた画風から脱却を図ろうと考え、生涯をかけて自分独自の画風を模索することとなります。戦後1955年からの20年間はニューヨークを拠点に活動を続け、滞在からわずか半年で初個展を開催するなど精力的に活動を行いました。当時活躍していたマーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどの有名アーティストとも交友がありました。
「絵として美しいこと、新しいこと」それを体現するように、この頃から画風が具象から抽象絵画に変わっていきました。色・形・それらの画面上のバランスを突き詰めるうちにモダニスム志向の具象から大胆なデフォルメ、色彩はカラフルで独創的な表現が中心となっていったように感じます。1980年代後半からは再び具象的要素が現れ、晩年は日本とハワイの2拠点生活でさらに表現の幅を広げました。
猪熊弦一郎現代美術館
彼の出身地である香川県丸亀市には猪熊弦一郎現代美術館があり、「美術館は心の病院」のコンセプトのもとデザインされた美術館となっております。
世界で最も美しい美術館をつくる建築家と評される谷口吉生が猪熊弦一郎との対話によって、アーティストと建築家の理念が細部に至るまで具現化された建築となっています。この美術館は子どもが美にふれることを重視し、建物正面に手掛けた壁画など落書きにも見える猪熊作品を見て、“自分にも描ける”と親しみをもってもらい、繰り返し美術館に来てもらいたいとの想いで建築されました。猪熊自身により1000点を超える作品が寄贈されており、生涯を通して変化を続けた彼の歴史と現代美術を鑑賞することができます。
興味がある方は是非、訪れてみてはいかがでしょうか。