作家・作品紹介

洋画と日本画の垣根を超えた天才画家 小杉放菴

先日ふと自然に触れたいと思い立ち、栃木県の日光市へ向かいました。
その日は天候にも恵まれ、奥深い山にひそむ華厳滝の雄大さ、美しさを体感することができました。また世界遺産にも登録されている日光東照宮をはじめとした歴史的建造物なども見て回り、ことわざにもある「日光を見ずして結構なかれ」の意味をなんとなく体感することができました。

そんな雄大な自然と歴史ある建造物に囲まれた中で生まれ育ち、旧・日光市で最初の名誉市民になった有名画家がいます。
今回は多彩な才能で日本の近代美術の歴史に名を残した「小杉放菴」についてご紹介いたします。

洋画と日本画の垣根を超えた天才画家 小杉放菴

3つの時代4つの名前を持つ男

小杉放菴は明治14年に生まれ、昭和39年に82歳で亡くなりました。明治・大正・昭和という3つの時代を生きた放菴は、生涯の間に4つの名前を持ったと言われています。

1つ目は本名である“国太郎”。
2つ目は洋画の時代に雅号として名乗る“未醒”。
3つ目が洋画と日本画を描いていた時代の“放庵”。
4つ目が本格的に日本画家として認められた時代の“放菴”です。

放菴は洋画を学んだのち、日本画的なテーマを描いたり、逆に西洋画の主題を屏風など日本画の画材に描いたり、多彩な技法で作品を生み出しましたが、時代共に徐々に洋画から日本画へと転向していきます。

雅号でいつの時代の作品かを判別できるところは面白いポイントですね。
基本的には最後の雅号であり使用期間の長い「放菴」が名称として使われています。


洋画の師匠 五百城文哉(いおきぶんさい)

放菴は15歳頃から洋画家である五百城文哉に師事し、住み込みで絵の書き方を学びました。師匠は放菴を我が子のように可愛いがり、放菴もまた師匠を尊敬する関係でした。実は放菴の最初の雅号「未醒」の名づけには師匠が関わっていると言われています。昔からお酒好きの放菴が、お酒はまったく飲まない師匠に、お酒の飲み過ぎを叱られたときに反抗して「未(いま)だ酒から醒(さ)めることができません」という意味の雅号をつけたということです。当時から遊び心のある放菴らしい一面が垣間見ることができますね。
明治32年、放菴が18歳の時に師匠の許しを得て上京することになります。この経験を活かして『漫画一年』『漫画天地』などの本も出版しました。


洋画と日本画の垣根を超えた天才画家 小杉放菴

洋画家から日本画家へ

上京してすぐに太平洋画会の会員となり、明治44年に第5回文展で《水郷》という作品が最高賞に選ばれました。その翌年にも、《豆の秋》が2年連続で最高賞に選ばれ、洋画家として、多くの人びとに認められます。 探究心の強い放菴はさらなる洋画の研究のため世界中を周りますが、そこで1番影響を受けた作品がパリで目にした日本画家・池大雅の《十便図》の複製でした。これをきっかけに東洋的画題に開眼し、日本画の制作に次第に軸足を移すようになります。


洋画と日本画の垣根を超えた天才画家 小杉放菴

麻紙の放庵か、放アンの麻紙か

「放菴」の晩年は、福井県の紙漉職人「初代・岩野平三郎」による麻の繊維が漉き込まれた特注の和紙に出会うことで日本画での独自のスタイルを確立しました。自ら「麻紙の放庵か、放アンの麻紙か」と語ったように、非常に愛着をもち、その和紙は「放菴紙」と呼ばれ、放菴の没後に生産が終了、現在は手に入れることのできない幻の紙となっています。「放菴紙」に描かれた作品は独特のかすれと墨の滲みで唯一無二の風合いと、素朴且つ郷愁を感じさせます。


小杉放菴日光記念美術館

小杉放菴の洋画から日本画の変遷や、多彩で自由な作品は日光市の豊かな自然の中にある小杉放菴日光記念美術館にて鑑賞いただけます。
◆HP https://www.khmoan.jp/

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