2024.02.13
民芸陶器の人間国宝 島岡達三
東京都内より車で北上すること約2時間。
栃木県の南東部にある益子町周辺を産地とする陶器 益子焼。益子焼は、備前、信楽、瀬戸などよりも比較的歴史が浅く、江戸時代の終盤に笠間で製陶を学んだ大塚啓三郎が益子の根古屋に築窯したのが始まりです。
今回は益子焼と益子焼の普及に努めた民芸陶器「縄文象嵌」の人間国宝島岡達三についてご紹介いたします。
益子焼の特徴と中興の祖 浜田庄司
益子焼の特徴は、砂気の多いゴツゴツとした土の質感で、材料の性質上割れやすく持つとずっしりと重さを感じます。その性質上、精巧な器を作るには向かなかったため、江戸時代頃の益子焼は主に水がめ、火鉢、壷、土瓶などの日用品が制作されていました。基本的な釉薬は漆黒や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色を出す鉄釉です。石材粉や古鉄分を釉薬にし、筆で色づけを行うため、ぼってりとした肌触りと重厚な色合いが特徴です。
そんな益子焼の中興の祖と呼ばれる人物がいます。浜田庄司です。1894年に生まれた浜田は東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科で板谷波山に師事。卒業後、河井寛次郎と共に釉薬の研究に従事し、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得ます。1926年頃に日本で民芸運動が起こり、浜田は益子で作陶を始めます。益子に「民芸」を持ち込み、その後益子からさまざま作家を輩出していくようになりました。そんな益子焼中興の祖と呼ばれた浜田庄司の愛弟子の一人が島岡達三です。
島岡達三
1919年、島岡達三は東京都港区愛宕の3代続いた組紐師島岡米吉の長男として生まれます。日本民芸館で観た河井寛次郎や浜田庄司の作品に感動し、民芸の美に憧れ、作陶家を目指します。その後、東京工業大学窯業科に入学。翌年には浜田庄司の入門の許可を得ていましたが、太平洋戦争になり、1946年から浜田に師事します。その後、浜田の紹介により栃木県窯業指導所に勤務。1953年に浜田邸の隣に築窯します。浜田から「早く自分の個性あるものを」と言われ、「縄文象嵌技法」が誕生します。この技法は、栃木県窯業指導所勤務時代に古代土器の標本複製の仕事をしていた時に研究した縄文土器と李氏朝鮮時代の象嵌技法から影響を受けています。島岡はこれらを身近にあった組紐師である父に組んでもらった紐を転がして縄文を施し、更に象嵌をなしていくとう方法で融合させ、誕生させました。1960年代の作品を見ると中心的技法になっている事が見受けられます。
その後、国内外問わず精力的に活動し、高い評価を受け、「益子焼の普及」に寄与すべく、益子焼に関する取材に応じたり、数々の論文や書籍を数多く著しました。
1996年に民芸陶器「縄文象嵌」で重要無形文化財の技術保持者(人間国宝)として認定されます。また、1999年には勲四等旭日小受章を受章しました。
そんな島岡達三の作品を観たい方は、同じ栃木県の那須高原にある「ホテルサンバレー那須」と言うホテルがオススメです。温泉施設と美術館が併設されていて、作品を一同に鑑賞できます。観光がてらぜひ行かれてみてください。