作家・作品紹介

最後の文人画家 富岡鉄斎

最後の文人画家 富岡鉄斎

明治・大正期に活躍した文人画家であり儒学者である富岡鉄斎。
今年没後100年の節目を迎えましたが、現代においても関西を中心に全国で大規模な展覧会が企画される超人気作家の一人です。今回は富岡鉄斎の魅力に迫りたいと思います。

富岡鉄斎は1937年天保8年に京都に生まれました。
15歳頃より国学、勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを学び、18歳頃に女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受け、翌年に南画や大和絵を学びました。やがて全国各地を巡り、日本人的解釈で情景を表現、晩年89歳で亡くなるまで文人画家と称され関西を中心に親しまれました。
しかし世間からは文人画家と称されていたものの、鉄斎本人は自身が文人画家とは思っていなかったようです。


最後の文人画家 富岡鉄斎

「俺は知っての通り元が儒生で、画をかくといふのは変体ぢゃ」

鉄斎自身、実は文人画家であろうとしました。しかし文人とは学問に携わって詩文書画の様な文雅のことを趣味とする人で、文人画家とはその様な文人が自娯のため制作する余技の書画であると考えていました。その為、文人の間ではそれは職人としての画工の作に優ると考えたようです。生前、「俺は知っての通り元が儒生で、画をかくといふのは変体ぢゃ」と述べたことがあり、自分はどこまで行っても学者であって画家では無いと常々口にしていたようです。鉄斎はむしろその専門の画家を軽んじず、岸竹堂や今尾景年、竹内栖鳳の画技を高く評価していました。鉄斎本人が画家では無いと述べたのは、京都画壇の名人達をよく知るからこその謙虚さの表れではないかと思います。


最後の文人画家 富岡鉄斎

過去の偉人にリスペクトし、絵によって道徳や真理を語る

鉄斎が生きた時代と言うのは、明治維新による西洋化が進んでおり、その頃に活躍した画家の大多数がそれまでに無かった全く新しい西洋の新しい動きに対して注視していました。
しかし鉄斎は毅然と「画を以って方を説く」という伝統的なスタイルを貫き、絵によって道徳や真理を語るという姿勢を崩しませんでした。周りに流されず、主題に画風を合わせて、先人達の思いや筆の流れに思いを巡らせ、己の思いを貫くがまま存分に表現した作品は鉄斎作品の最大の魅力と言えるでしょう。

更に、美術における大正時代はまさに個性派と言われる事が多かった時代であり、こうした流れとは裏腹に過去の偉人にリスペクトし続ける気持ちを最後まで忘れない鉄斎こそが一番の個性派画家と思うのは、自然の流れでは無いかと思います。

そして幕末から大正まで約60年もの間、文人画に留まらず狩野派、土佐派、大津絵、更には書まで貪欲に追求しながら日々の制作を続け、約三万点以上の作品を制作。その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎・小林秀雄らより絶賛され、日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けています。


「万巻の書を読み万里の道を行く。」

富岡鉄斎という人物を語る時、絶対に欠かす事ができない言葉が有ります。
それは「万巻の書を読み万里の道を行く。」これは中国の明の時代に活躍した文人画家、董其昌の「画禅室随筆」に基づく言葉だそうです。良い絵を描くために必要な画力は天授の才能では有るかもしれないが、沢山の書物を読んで己の人格を磨き、旅をしながらその土地の豊かさや風情に触れ、究極の理念を抱えたまま筆を走らせる。そんな単純明快であり難解でも有る、鉄斎ワールドが満載の作品は現代でも鉄斎の精神と共に受け継がれています。未だに未発見の絶筆や珍品が発見され、私もこの仕事を通して幾度となく驚きの作品に巡り合う機会がありました。

人気故に模写や複製工芸、贋作も非常に多い作家では有りますが、ご自宅に眠っている「もしかしてこれ、鉄斎の作品では?」と思われる作品がございましたら是非一度弊社にお気軽にお問い合わせ下さいませ。

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