2024.09.17
日本近代西洋画の重鎮 小磯良平
絵画の人物画といわれる中には、肖像画、女性像、群像画などの題材が沢山ありますが、どの人物画を見ても見る者を引き付けて止まない、そんな作家がいます。
今回は昭和期に活躍した日本近代西洋画の重鎮、小磯良平をご紹介します。
鮮烈なデビュー
1903年に岸上家の次男として神戸で生まれ、現在の東京芸術大学西洋科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳ら同級生と切磋琢磨しました。1925年、在学中に親戚の小磯家の養子となり改姓し、その年には帝展に入選。翌年には「T嬢の像」で帝展特選を果たします。当時、美術学校では学生の出品を禁じていましたが、改姓した「小磯」とういう姓を審査員が誰も知らず、また、23歳の画学生が描いたとは思えない完成度の高さを誇るこの作品は、画壇に強烈なインパクトを与え、鮮烈なデビューを果たしました。
同大学を首席で卒業するとフランスへ2年間留学し、絵画技法の習得よりも、各地の美術館をめぐり、アングル、コロー、クールベ、マネ、ドガなどの巨匠達の作品を鑑賞し、群像表現を極めることを生涯のテーマにしました。
従軍画家として
そんな中、後に小磯自身も悔いる出来事がありました。きっかけは戦争です。
小磯は1938年から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作します。そして、1941年には群像画の傑作と言われる「娘子関を征く」「斉唱」を相次いで発表しました。群像を書くため精力的に戦争画に取り組みましたが、戦後は画集への収録をおこないませんでした。写真がモノクロの時代に画家が描く戦争画の人々への影響力は強く、「戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む」と晩年に語っており、実際に洋画家 内田巌に宛てた手紙で封書が35通、はがきが3通発見され、そのうちの1つに戦争画に対する言及がされています。
後世の育成に尽力
戦後は東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、画学生たちの若い感性を大切にした指導で、日本の洋画界に大きく貢献し、同大学名誉教授の号を授与されました。1992年に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られています。小磯良平の画力、特にデッサン・素描画は現在でも画学生達の目標となっており、芸大受験生も先ずお手本とする作家です。その画力はそのまま銅版画やリトグラフといった版画にも活かされており、線のみで描かれているにも関わらず見る者を魅了します。
やがて、1983年文化勲章を受章。1988年に85歳で逝去されますが、名実ともに日本の洋画界に大きく貢献した最高峰の画家と言えるでしょう。
◆小磯良平の作品を展示する美術館
神戸市立小磯記念美術館(油彩・素描・版画など約3,000点所蔵)