2020.09.15
幸福の画家 ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール、印象派を代表する日本でも知らぬ人はいないだろう画家について、今回はお話させていただきます。
鮮やかな色彩、匂い立つ様な官能、揺らめく木漏れ日といった明るさに満ちた素晴らしい絵を描いたルノワールは幸福の画家と称され、オークション等では大変な高額が付けられます。
しかし、そんなルノワールも長い下積み生活を経て成功を手にした画家でした。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」
苦労人 ルノワール
仕立屋の父、お針子の母という職人の両親の元に生まれたルノワールは、いわゆる労働者階級の出身でした。
1841年に生まれて13歳から労働に勤しんでいたルノワールは、失業をきっかけにして1861年から画塾に入り本格的に画家を志すも、サロン・ド・パリに応募しては入選と落選を繰り返し続けるという苦しい年月を重ねていました。
そもそも、ルノワールが画家を志した1860年代当初の流行は歴史や神話等を主題とするような保守的絵画が主流であり、この頃にルノワールが描いていた印象派のような絵画は評価されづらいという側面もあったのです。
また、同じ印象派の画家仲間の多くが貴族階級や裕福な家の子女であったのに対し、貧しい労働者階級出身であったルノワールの苦労は並大抵のものではなかったでしょう。
当時はサロンでの評価を得なければ画商やコレクターに絵を買ってもらう機会は滅多に得られませんでした。他の印象派画家がサロンを離れていき作品を応募すべきでないとする中で応募を続けた事からも、経済的に苦しいルノワールにとってサロンに入選して作品が売れるようになる事が切実な問題だったと思われます。
そんなルノワールの苦労は1879年にサロンで高評価を得る事で実を結び、画家として不動の地位と安定した生活を手に入れる事となります。
左)ルノワール作「パリスの審判」
右)梅原龍三郎作「パリスの審判」
日本人画家に与えた影響
ルノワールは、日本人画家にも大きな影響を与えました。
梅原龍三郎はパリの美術館でルノワールの絵を見て深い感動を受け、ルノワールに会いに行ったといいます。
また、20世紀初めに日本国内の雑誌で紹介された事で土田麦僊をはじめとした画家にも影響を与えたと言われています。
坂本繁二郎や岸田劉生といった巨匠は批判的な感想を残していますが、それも影響の一つだと言えるのではないでしょうか。
ルノワールを幸福の画家たらしめたる思い
ルノワールの絵画は、多くの苦悩と長年の画家生活もあいまって多様な主題や異なった画風の作品が存在します。しかし、それらの作品には共通して、彼が一貫して抱き続けた一つのテーマが内包されていると思います。
ルノワールは、その画家生涯を通して明るい絵を描き続けました。
同時代に活躍したドガやマネは特権階級から見たシニカルな視点での作品を描きましたが、ルノワールは人生の暗い部分ではなく楽しく明るい側面を描きました。
「女性のお尻と胸がなかったら、私は画家にならなかっただろう」という有名な言葉を残し、晩年はバラ色の豊かな色彩と流麗な筆触による裸婦の絵を多く描きました。ちなみに女性関係にも貪欲だったそうで、私生児であるモーリス・ユトリロの父親という説もあります。
裸婦に限らず絵画に対してルノワールが抱いていたのは、絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならないという強い思いです。
これ以上我々が生み出さなくても人生には不愉快なことがいくらでもあるじゃないかと言ったルノワールは、明るく楽しい絵を世に送り出す事によって人々を幸福にできると信じていたのでしょう。
晩年はモディリアーニや藤田嗣治も暮らした芸術村として有名な南仏のカー
ニュに移り住んだルノワールは、リウマチに悩まされ激痛に苛まれながらも精力的に絵を描き続けたそうです。
創作物というのは、多かれ少なかれ作家自身の言いたい事や表現したい物がそこには存在します。その中でも、ルノワールの信条や信念はとても素晴らしい事ではないかと思います。