2020.03.17
型絵染めの人間国宝 芹沢銈介
芹沢銈介の作品は意識していないと気がつかないほどいろいろな場所で活用されています。着物はもちろん、着物以外にも作品の幅を屏風、のれん、カレンダーと日用雑貨と幅広く作品を制作し生涯で作り上げた作品は10,000点以上ともいわれています。
日用雑貨は手ごろな価格と独創的なデザインで人気を博し、研究所の主力商品であったカレンダーは、国内外に1万組(12万枚)を出荷した年があるほどです。
染色の道一本で生き抜いた芹沢銈介の作品は、今現在でも愛好家からは人気を集めています。
皆さんの興味が沸いてきたところで芹沢銈介の生い立ちを紹介します。
芹沢銈介の生い立ち
1895年に静岡市の呉服商の家系に生まれました。その頃から着物に縁があり、美的感性も優れていたようです。
中学生の時には水彩画を学ぶなど美術好きな少年に育ちました。しかし中学卒業直前に隣家からのもらい火事によって実家が全焼し、美術学校への進学を断念せざる得なくなり、図案科のある学校へ進学しました。卒業後は店舗の装飾、広告などを製作をする仕事をしていました。
その後、芹沢の転機となったのが柳宗悦の存在でした。柳宗悦に影響を受けて柳が主宰していた民藝協会の主要メンバーとして活動することになりました。
芹沢銈介と琉球紅型との出会い
1928年には柳宗悦が作品を出品した日本民藝館を訪れた芹沢は、琉球紅型(びんがた)の風呂敷に強く惹かれました。芹沢にとって柳宗悦と琉球紅型との出会いは、制作と共に生きる決意につながりました。芹沢銈介といえば、沖縄を連想する方も少なくありません。沖縄への関心はこの頃から芽生えたのかもしれません。
1929年に芹沢は日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等を出品し、国画会展では「紺地蔬菜(そさい)文壁掛」を初出品して、国画奨学賞を受賞しました。
その後も1945年に東京大空襲に遭うなどの不遇に見舞われた芹沢ですが、それでもめげずに作品を出し続けて、1956年に型絵染めの人間国宝に認定されました。今や型絵染といえば芹沢と言われるほど地位を確立したと思います。
1984年に芹沢銈介は88歳で亡くなります。生涯製作10000点といわれる作品を残し、40年弱経った今でも多くのファンがいます。幾度の不幸に遭いながらも強靭な精神で乗り越えきた染色家・芹沢銈介の作品は、今後も多くの人々を魅了していくことでしょう。