2021.06.15
北海の原風景 相原求一郎
相原求一郎と戦争に運命を変えられた画家たち
戦争。争いの戦火は数多くの画家たち運命を変えていきました。
戦争画を描いた事により、後に「戦争協力者」として非難を受けた藤田嗣治は、宮本三郎、小磯良平らと従軍画家として南方戦線に派遣されています。
古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた向井潤吉も、従軍し多くの戦争画を残しています。また戦争と抑留の体験を描いた「シベリア・シリーズ」を残した香月泰男、齢50を過ぎてから画家としてデビューし、日本に残された原風景を描き続けた林喜市郎は共にシベリア抑留を経験しています。
詩情あふれる北海道の風景画で有名な相原求一郎。彼も戦争により運命を変えられた画家の一人でした。
相原求一郎の生い立ち
相原求一郎は1918年埼玉県の川越市に生まれました。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境でした。家業を継ぐために一時は美術の道を諦めるも、家業に従事しながらも独学で絵を描き続けます。21才で招集され旧満州やフィリピンを転戦。フィリピンからの帰還途中に搭乗した飛行機が墜落し、重傷を負って漂流していたところを救出されるといった体験をします。戦後、夢を諦めきれない相原は1948年にモダニズムの画家・猪熊弦一郎に師事し画家として新たな道を進みました。
相原は21歳で兵役に就いた際、旧満州(現在の中国東北部)で4年余りを過ごしています。
43才で北海道に写生旅行に出かけた相原は、北海道の原野がかつて多感な青春時代を過ごした満州に酷似していることに愛着を感じノスタルジーを掻き立てられたそうです。
相原の作品には満州で過ごした日々、見た景色が北海道の大自然を通してモノクロームの色調で抒情的に描かれています。特に北海道風景の作品の中でも多く見られるのが真冬の雪で覆われた風景です。北海道で最も厳しい季節を描くことで、九死に一生を得て帰国した、相原の戦争体験が作品として詩情豊かに表現されているように思います。
相原求一郎の絶筆「天と地と」
晩年は長年続いた経営者と画家との二足の草鞋による過労から、体調を崩しながらも制作を続け、病と闘いながらも毎年北海道の地を訪れたそうです。亡くなる前年の1998年には縦1m80cm、横は2mを超えた150号!!という大作に挑みます。1年半前から患っていた病が悪化する中、取材として大雪山系の黒岳に登り、山並を5枚もつなぎ合わせ構想を練ったそうです。そうして命を削って描いた渾身の絶筆「天と地と」を書き上げ、その後半年もしないうちに相原は旅立ちました。
北海道で生まれ育ったわけでなく、実業家、そして画家として80年余りを川越で過ごした相原が、遠く離れた北の大地に魅せられたもの、生涯をかけて描き続けたものは、彼の原風景そのものであったのではないでしょうか。