2019.08.27
不動の画家、斉白石
近年過熱する中国美術ブームの中でも、その人気を不動の物としている斉白石(さいはくせき)という画家を皆さんご存知でしょうか。
清朝末期から中華民国、中華人民共和国という3つの時代を生き、村の貧しい牧童から大工業を経て、職業画家から国を代表する大巨匠にまで昇りつめた斉白石。今回は彼の生涯について触れてみたいと思います。
大工業から画業の世界へ
白石は1864年湖南省の貧しい農家で生まれました。生まれた時に「純芝」と名付けられましたが、祖母が親しみを込めて「阿芝」と呼ぶようになり、この名が暫く定着しました。家が貧しく家業を手伝う阿芝は、15歳の時従兄弟から大工の仕事を教わり、大工業としての道に進みます。その客先で中国絵画技法の教科書である「芥子園画伝」を偶然見つけ、この本に多大なる影響を受けます。
そして元々器用であった阿芝は、時間を見つけては自然と筆を走らせ絵画の基礎を沢山創作するようになります。そして27歳になったときに、胡沁園という人物に見込まれ、「白石仙人」とうい号を授ると本格的に画を教わり、やがてこれまでの貧困から脱出し次第に大工仕事をする事が少なくなり、「職業」として画業の道に入って行きます。
白石が他の画家と大きく異なっていた点は、その独創性にあると言われております。従来の宋・元時代の名画技法を継承・模写する事を嫌い、彼は有名無名問わず先人画や自分の弟子、さらには民間作品まで吸収出来る物は何でも画稿にして図案のヒントにしました。その結果白石の作品は、誰よりも多彩で鮮やかな作品が数多く生まれる様になりました。
国を代表する美術家として愛された斉白石
1927年63歳の時に、大学教授としての人生が始まると白石の評価は更に広まり、多くの学生達も白石の下で書画を学ぶ事になります。その中には王雪涛、李苦禅、李可染など彼らもまた、現在日本はもとより海外でも評価され絶大な人気のある作家です。
100年近く生きた白石は、戦争・混乱という厳しかった時代を経て新しい人民共和国の成立を向かえ、誰もが待ち望んだ平穏な日々を送る事ができ、白石の作品もまた新政府と国民に愛され、人生最高の評価を得ました。晩年になると白石がよりよい環境で創作出来る様に、当時の総理周恩来の働きにより住居を提供されるまでになりました。
そして1957年に93歳で逝去すると、国家は盛大な公葬を行い、翌年の元日には大規模な遺作展を開催しました。白石の芸術は後に続く画家にとても大きな影響を与えました。
日本では1970年代から白石を始め多くの中国作品が渡り画廊や百貨店で販売されました。白石の作品の落款には「白石」と記されるもの以外にも沢山の字(あざな)や印譜を用いた作品があります。お持ちの作品でもしかしたら、と思う作品がございましたら是非お気軽にお問い合わせ下さい。