2019.10.29
上村松園 -永遠の美人画-
もう20年も前の話になります。当時学生だった私は美術館巡りが大好きで、中でも山種美術館が一番好きでした。
そこで出会ったのが上村松園(うえむら しょうえん)の「砧(きぬた)」です。夫の帰りを待ちわびる姿なのですが、すらりとした立ち姿できりっとした表情の美人です。そこから松園の大ファンになりました。
松園の美人画は、時空を越えた永遠の美を感じさせます。今回は、松園が理想の美人画に至るまでをひもといてみたいと思います。
幼少期~謡曲もの
上村松園(1875~1949)は京都の茶葉を商う家に生まれ、幼い時から絵を描いていました。女性たちに囲まれて育ち20代で花嫁衣装のコーディネートを頼まれるほど衣装の知識がありました。
12歳で鈴木松年(すずき しょうねん)に弟子入りしたのち21歳で竹内栖鳳(たけうち せいほう)に師事しています。
竹内栖鳳の画塾は当時の最先端の画風で、伸び伸びと美人画に取り組めたようですが、大正時代には逆風にも遭っています。
大正モダニズムの時代(1910-1920頃)の文展はゴーギャン風ありルネサンス風ありと混沌としていました。松園の絵は「無表情な人形」と批判され「喜怒哀楽は描きたいが、ただれた絵は描きたくない」と試行錯誤しています。
そこで両家の子女の習い事としてメジャーだった謡曲(お能)をテーマにすることを得ました。謡曲にちなんだものであれば喜怒哀楽を含んだ女性美が描けます。
ここで作風が大きく転換し40代から50代にかけて「花がたみ」「焔」「楊貴妃」といった名作を発表していきます。
松園の敬愛する母と母子像
次の大きな転換期は松園が59歳、敬愛してやまない母が亡くなったときです。
母親は全ての家事や子育てを引き受けてくれ、世間の風当たりからも庇い、絵だけに集中させてくれた人でした。
この年に発表された「母子」(国立近代美術館蔵 重要文化財)は母への思慕が結実したひとつの完成といえましょう。
母をしのばせる女性像は、深い情愛に満ちてまた凄みすら感じさせます。
究極の女性美へ
その後「序の舞」(東京藝術大学蔵 重要文化財)に代表される「一点の卑俗なところなく清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」というスタイルを確立していった松園ですが、67歳の「夕暮」で理想の女性美へと昇りつめたように思います。
化粧も衣装もごく普通の女房が、夕日を頼りに針に糸を通す姿は日常的な場面です。
華美でなくても粋でなくても美しい、真の女性美といえましょう。「日本の女性はこんなにも美しいのですよ」という松園の声が聞こえてきそうな作品です。
以前に2mはあろうかという松園の大幅をお預かりしたときの感動は今も忘れられません。
手が震えそうになるのをこらえながら軸先を下げていき、中から現れた美人は柔らかな光が射してくるような神々しさでした。後にも先にもあれほど神々しい作品は見たことがありません。
この先にあの感動を超える作品に出合える事を願います。