2022.03.01
「濁手」の美しき白 酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん) 後編
前編では江戸期までの柿右衛門窯についてご紹介しました。
後編では明治期から近代までをご紹介いたします。
明治期~濁手の復興に力を注いだ十二代柿右衛門
1757年に完全に注文・輸出がなくなった有田ではヨーロッパへの美術品制作を国内向けの日常品制作へ流通を転換しました。安価に手に入りやすい器などを中心としたため、庶民に広がるも優良品ではなくなったのも事実です。廃藩置県で藩がなくなり、窯業が自由化されましたが十一代柿右衛門は脈々と受け継ぐ伝統の柿右衛門様式に野心を燃やし、「角福」銘を商標登録しました。大正~昭和にかけて復興に功績を残した十二代柿右衛門は経済状態が苦しいなか実業家の小畑秀吉に出会います。小畑が出資し大正8年に「柿右衛門焼合資会社」が設立。しかし職人気質の十二代と手広く商売をする小畑との経営方針で確執が生まれ、8年間という短い期間で幕をおろしました。また「角福」銘を譲り渡さなければなりませんでしたが、持ち前の職人気質で世人の人に愛される器を作り、柿右衛門の名を知らしめたとされています。途絶えていたヨーロッパ輸出時代の濁手の復興に力を注ぎ研究をかさねていたそうです。濁手をいう言葉は元々ヨーロッパで広まった“ミルキーホワイト”の訳=“乳白手”からきています。白磁の素地、胎土を絶妙に配合し先祖代々伝わる濁手を蘇らせました。昭和28年に文化財保護法が制定され、十二代柿右衛門が無形文化財保持者に指定されました。
十三代柿右衛門~近代へ
父にあたる十二代柿右衛門の職人気質とは違い、十三代柿右衛門は社交的で有識者からのアドバイスなどを受け入れ、柿右衛門の伝統を守りつつも自分らしさの追求し作陶したといわれています。自ら旅行に赴きスケッチを重ねデザインに時間を費やしました。日本伝統工芸展にも進んで出品し、世人に耳を傾けたそうです。十四代柿右衛門は美大で日本画を専攻し草花を中心とした絵付けに洋風に移り変わる日本の生活様式になじむ作品を多く制作しました。そして平成~令和、十五代目柿右衛門に今もなお伝統は受け継がれています。
おわりに
今回ご紹介しました、柿右衛門の作品はデパートの個展や窯元で観ることができます。
でもせっかくなら四季が美しい佐賀県有田町の佐賀県立 九州陶磁文化館に行ってみてください。柿右衛門はもちろん古伊万里・鍋島焼の歴史や有田焼の制作方法等も学ぶことができます。そしてその後、昼食はぜひ有田焼の器でいただいてみてください。その器を眺めると、長い有田の歴史と製作者の想いなどを感じ、紋様等から今も昔も変わらない五穀豊穣や子孫繁栄などの祈りを感じることができますよ。