2021.01.19
自由奔放な表現で世界に挑んだマルチアーティスト 池田 満寿夫
今回は池田 満寿夫を紹介します。
マルチに活躍した美術家 池田満寿夫
池田 満寿夫は、日本の画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督など、従来の芸術の枠にとどまらず、独創性を追求しながら様々な表現方法で作品を発表し、マルチに活躍した芸術家です。エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多いのが特徴です。
絵画にとらわれずマルチな活動したところは、最も多作な美術家であると『ギネスブック』にも認定されている海外の多才家、パブロ・ピカソとどこか通じる部分があるかもしれません。
池田満寿夫の生い立ち
1934年旧満州国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ、戦後長野県長野市で育ちました。
高校在学中に絵画が入選した事で画家を目指して上京し、芸大の中で最難関として知られる東京藝術大学を3度受験するも不合格。
ただ、それでも画家になる事を諦めなかった池田満寿夫は、似顔絵を描いて生活する日々を過ごします。そしてその中で描き上げた作品が、自由美術家協会展に入選。
画家・版画家として活動する瑛九に勧められ、色彩銅版画に取り組むと才能が開花しました。
池田満寿夫 国際版画大賞、芥川賞受賞
その後もニューヨーク近代美術館での日本人初の個展(1965年)やベネチア・ビエンナーレ展での国際版画大賞受賞(1966年)など、版画家として早熟の才を発揮し、また、1977年には小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞しました。翌年にはその映画化に際し、自らメガホンを取ったことでも知られています。
女性との出会いと別れ、池田満寿夫の創作イメージ変化
池田満寿夫の創作には、女性との出会いと別れが不可欠です。
四人の女性と出会い、愛することにより生き方が変わり、絵のイメージも抽象からポップアート、そして日本回帰へと変わっていきました。
池田満寿夫マルチタレントとしての活躍
小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞し、時の人となり、独特のキャラクターもあってマスコミの話題となった池田満寿夫は、世界的なバイオリニストの佐藤洋子との結婚やテレビのクイズ番組への出演などマルチタレントしても活躍しました。
しかしその高い知名度に比べて芸術活動については、あまり評価が高くありませんでした。
出発点の油絵に対する池田満寿夫の想い
池田満寿夫自身、「世の中で有名となって良くなることは1つとしてない」と語っていたようです。
晩年には、「僕は油絵で出発し、版画や陶芸にそこそこの傑作は残せたが、油絵だけは傑作がない。僕は最後に油絵の傑作を残して死んでいきたい」としばしば口にしていたそうです。
自分の芸術を最後まで突き詰めようとしていましたが、実現しないまま、1996年3月に急性心不全のため亡くなりました。享年63歳でした。
昭和の時代を駆け抜けた池田満寿夫。
最後に願っていた油絵の傑作をこの目で確かめたかったと思うのは、私だけでしょうか。