はじめに
絵を描くことに生涯を捧げ、「画壇の仙人」と呼ばれた熊谷守一。30年もの間、自宅の庭に寝転がって小さな生き物たちを観察し、独自の表現世界を築き上げました。文化勲章も辞退した気骨ある画家の作品は、現在、美術品市場で高い評価を得ています。
抑えられた色調ながらも大胆な色使いと赤い輪郭線で描かれた作品群は「熊谷様式」と呼ばれ、美術館でも重要な収蔵品として扱われています。
本記事では、熊谷守一の生涯から作品の特徴、そして市場価値まで、詳しくご紹介いたします。作品をお持ちの方、熊谷守一に関心をお持ちの方は、どうぞ最後までお読みください。
熊谷守一とは?
生涯と画家としての歩み
1880年、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)に生まれた熊谷守一は、幼少期から絵を好む少年でした。父親は製糸業で成功し、岐阜県会議員や初代岐阜市長を務めた名士です。
12歳頃から水彩画を描き始めた熊谷は、1900年に東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。黒田清輝や藤島武二に師事し、同級生には青木繁や山下新太郎らが在籍していました。
1909年には、暗闇の中で蝋燭を灯した自画像「蝋燭」が第三回文展で入賞。その後、一度実家に戻って材木運搬などの日雇い労働に従事し、1915年に再び上京して第二回二科展に「女」を出展しました。
1922年には42歳で18歳年下の大江秀子と結婚し、5人の子供をもうけました。しかし、生活は困窮を極め、次男の陽を3歳で肺炎で、三女の茜を2歳で、長女の萬を21歳で失うという悲しい経験を重ねることになったのです。
特に長女の火葬後の様子を描いた「ヤキバノカエリ」には、深い悲しみが込められています。
出典:ARTalk
1929年には二科技塾開設に参加し、後進の指導にも力を注いでいます。
仙人画家と呼ばれた理由と文化勲章辞退
熊谷守一は名声や名誉には無頓着で、自由な制作と生活を好んだことから「画壇の仙人」という異名で呼ばれました。
その生き方を象徴する出来事が、1967年の文化勲章内示と1972年の勲三等叙勲の辞退です。「これ以上、人が来るようになっては困る」という理由での辞退からは、世俗的な名誉よりも自由な創作活動を重んじた熊谷の姿勢が伝わってきます。
1956年に軽い脳卒中で倒れて以降は、自宅からほとんど出ることなく、自宅の小さな庭で自然を観察しながらアトリエで絵を描く生活を送ることになりました。
熊谷にとって庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空を眺め、その中で見える動植物の形態や生態に関心を寄せ続けたのです。
なお、この自宅兼アトリエは、1932年に池袋モンパルナスと呼ばれた芸術家の集まる地域の近く(現在の豊島区千早)に建てられたものでした。80坪に満たない土地に建てられた質素な住まいでしたが、ここで熊谷は生涯の大半を過ごすことになります。2018年には、この住まいでの晩年の一日を題材にした映画「モリのいる場所」も公開されています。
熊谷守一の作品の魅力や特徴
熊谷守一の画風は、長い画業の中で大きく変化していきました。東京美術学校時代の初期作品には西洋画の影響が色濃く、特に20代から40代にかけては、暗闇の中でのものの見え方を追求した時期が続きます。
40代に入ると、裸体画に傾倒し、絵具を何層にも塗り重ねながら、光と影の表現を追求するようになりました。この頃から、後の熊谷作品の特徴となる赤い輪郭線が姿を現し始めました。
代表作「猫」「蟻」を描いた作品群の魅力と価値
熊谷守一の代表作として広く知られているのが「猫」を描いた作品群です。猫は熊谷の最も親しんだモチーフの一つで、特に晩年期に多く描かれました。
自由気ままに暮らす猫の姿を捉えた作品群は、根強い人気を誇ります。その魅力は、猫だけで一冊の画文集が出版されるほどでした。
同様に「蟻」などの小さな生き物を描いた作品も、熊谷の特徴的な作品として高い評価を得ています。
熊谷守一独自の作風と表現
熊谷の作品は、極端なまでに単純化された形態、それらを囲む赤い輪郭線、そして平面的な画面構成が特徴的です。
この「熊谷様式」と呼ばれる独特な画風は、一見シンプルに見えますが、緻密なスケッチに支えられた表現手法です。
熊谷は油彩画だけでなく、1938年頃からは墨絵も手がけ、大阪や奈良、愛知で初個展を開催しました。また、書や陶磁器への絵付け、木版画なども制作し、多彩な表現活動を展開。
特に晩年の制作では、まずスケッチを描き、それをトレーシングペーパーに写し、カーボン紙を使って油彩用のキャンバスに転写するという独自の手法を用いていたのです。
熊谷の制作プロセスには独特の特徴がありました。晩年は若い頃のスケッチブックを広げて油絵にすることが多く、同じ下絵から異なる作品を生み出していきました。
熊谷守一作品の買取相場・実績
※買取相場価格は当社のこれまでの買取実績、および、市場相場を加味したご参考額です。実際の査定価格は作品の状態、相場等により変動いたします。
山静和人心
93歳時作品、力のこもった文字に魅了されます。
椿
抽象画にみえるような単純化された具象の作品です。
三毛猫
芸艸堂版で作られた木版画作品です。
熊谷守一の作品を高値で売却するポイント
熊谷守一の鑑定機関・鑑定人
- 熊谷守一水墨淡彩画鑑定登録会 (京橋画廊内)
- 東美鑑定評価機構 鑑定委員会
一般財団法人東美鑑定評価機構は、美術品の鑑定による美術品流通の健全化及び文化芸術の振興発展に寄与する公的鑑定機関。
贋作について
ここ数十年のインターネットや化学技術の向上により、著名作家の贋作が多数出回っています。ネットオークションでは全くの素人を装い、親のコレクションや資産家所蔵品等の名目で出品し、ノークレームノーリターンの条件での出品が見受けられます。
落札者は知識がないがために落札後のトラブルの話をよく聞きます。お手持ちの作品について「真贋が気になる」「どの様に売却をすすめるのがよいか」等、お困りごとがあればご相談のみでも承っております。
来歴や付帯品・保証書
来歴や付帯品:購入先の証明や美術館に貸出、図録に掲載された作品等は鑑定書が付帯していなくても査定できる場合があります。
保証書:購入時に保証書が付帯する作品もあるので大切に保管しましょう。
水彩・デッサン
状態良好、保管方法
主に紙に描かれていることの多い水彩やデッサンは、モチーフに対して紙の余白がある反面、しみや日焼けが目立つ事があります。
油彩画(額)
状態を良好に保つ為の保管方法
油絵は主に布を張ったキャンバスと言われるものに描かれています。他にも板に直接描かれた作品もあります。油絵の具は乾燥に弱く、色によってはヒビ割れ目立つ作品が見受けられます。また、湿気によりカビなどが付着しやすく、カビが根深い場合は修復困難となってしまいます。高温多湿を避け、涼しい場所に飾りましょう。また箱にしまったままも湿気やすい為、最低でも年に2回は風を通すようにしましょう。
版画
状態を良好に保つ為の保管方法
版画には有名画家が直接携わり監修した作品も多くあります。主に版画作品下部に作家直筆サインとエディション(何部発行した何番目の作品であるか)が記載されています。主に紙に刷られており、湿気や乾燥に弱いです。また直射日光が長期間当たると色飛びの原因になります。掛ける場所・保管場所には十分注意しましょう。
※作品の状態や真贋について気になる点がございましたら、まずはお気軽にご相談ください。
熊谷守一についての補足情報
全国の熊谷守一関連美術館
出展:熊谷守一つけち記念館
熊谷守一の作品を鑑賞できる美術館で有名な場所は以下3つあります。
- 「熊谷守一つけち記念館」
岐阜県の「熊谷守一つけち記念館」は、油彩画約120点をはじめとする約500点もの作品を所蔵する本格的なコレクション施設です。 - 「豊島区立熊谷守一美術館」
東京都の「豊島区立熊谷守一美術館」は、画家の旧居を活用した特別な場所です。1985年に次女で画家の榧(かや)が創設し、2007年に豊島区に寄贈され、現在の区立美術館となりました。 - 「愛知県美術館」
愛知県美術館には、熊谷作品の重要なコレクションが収められています。資産家の木村定三氏が収集した100点以上の作品群です。木村氏は熊谷の作品に魅せられ、買取の個展を開くなどして支援を行いました。この支援が、熊谷の名が晩年に広く知られるきっかけとなったのです。
お近くの美術館で、実際に熊谷守一の作品世界に触れてみてはいかがでしょうか?
映画化された熊谷守一の晩年の一日
2018年に公開された映画「モリのいる場所」は、熊谷守一の晩年の一日をフィクションで描いた作品です。30年もの間、ほとんど自宅から出ることなく、庭の生命を描き続けた画家の姿を、山﨑努、樹木希林という日本を代表する俳優陣が演じ、熊谷守一の画家としての生き方や芸術観を広く世に伝えることとなりました。
芸術家として活躍する家族
熊谷の次女・榧も画家として活動し、日本山岳画協会会員として知られています。また、2004年には長男の黄が『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画や日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈。
現代に続く作品の評価
2017年には没後40年の回顧展が東京国立近代美術館で開催され、多くの人々の関心を集めました。
熊谷守一の主要作品
『蝋燭』 1909年(明治42年)60.0×50.5cm、岐阜県美術館
『陽の死んだ日』 1928年(昭和3年)、大原美術館
『裸婦』 1930年(昭和5年)頃、東京藝術大学大学美術館
『裸婦』 1940年(昭和15年)、65.2×53.0cm、徳島県立近代美術館
『ヤキバノカエリ』 1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年)、50.0×60.5cm、岐阜県美術館
『種蒔』 1953年(昭和28年)、40.0×30.0cm、福島県所蔵
『土饅頭』 1954年(昭和29年)、31.6×40.9cm、北九州市立美術館
『化粧』 1956年(昭和31年)、43.0×35.0cm、京都国立近代美術館
『白猫』 1959年(昭和34年)、豊島区立熊谷守一美術館
『猫』 1963年(昭和38年)、41.0×32.0cm、愛知県美術館
『白猫』 1963年(昭和38年)、32.0×39.4cm、個人蔵
『岩殿山』 1965年(昭和40年)、65.5×81.0cm、京都国立近代美術館
『兎』 1965年(昭和40年)、35.3×49.5cm、天童市美術館
『泉』 1969年(昭和44年)、熊谷守一記念館
『芍薬』 1973年(昭和48年)、33.4×24.3cm、和泉市久保惣記念美術館
まとめ
熊谷守一は、その独特な作風と生き方で、日本の美術史に大きな足跡を残した画家です。生涯を通じて写実から抽象へと表現を深め、晩年に確立された「熊谷様式」は、現代でも高い評価を得ており、作品の価値は年々高まっています。
名声や名誉を求めず、自宅の庭で見つけた小さな生き物たちを描き続けた画家の真摯な姿勢は、今なお多くの人々の心を動かし続けています。そんな熊谷守一の作品をお持ちの方は、ぜひ一度専門家による査定をご検討ください。豊富な経験と実績を持つ専門スタッフが、作品の価値を最大限に活かした買取をご提案いたします。
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