2022.04.19
有元利夫 -10年で駆け抜けた天才画家-
絵画好きな方なら有元利夫の絵をどこかで見たことがあると思います。一度見たら忘れられない独特な構図で時代を超越した不思議な世界です。
有元は1977年に「花降る日」でデビュー。天才現ると一大ブームを巻き起こしたのち、わずか10年の活動期間、38歳で早世しました。
幼少期~大学まで
有元の生家は、戦後に文具店を営んでいました。絵を描く道具に不自由なく過ごし、8歳の時にはゴッホ風の絵を描いていたそうです。また10歳ではプラモデルにわざと古く見える色を塗るという「風化」の嗜好を示しています。
有元は東京藝術大学(芸大)を受験しますが、4年も浪人しています。(何年も浪人した学生を多浪生といい、今も珍しくありません)予備校の4年間で厳格な石膏デッサンを会得し、また「デッサンとは何か、本物の美とは何か」という根本的な問題を深く思索したようです。
芸大に合格したのち、絵描きの方向性を決める大きな出来事がありました。友人の音楽学部の学生からリコーダーを教わることをきっかけにバロック音楽に強く惹かれたのです。
大学3年になる直前にはイタリアに1ヵ月旅行し、2000年前の壁画を見たり、ルネッサンス期の様々なフレスコ画に出会い、震えるほどの強い感動を受けました。
有元がフレスコ画で特に感動したのが、ピエロ・デラ・フランチェスカでした。ピエロ・デラ・フランチェスカといえば、代表作の「キリストの復活」でよく分かりますが、キリストの目は虚空を見ているようだし、遠くの山々はぎこちなく人物の足元が宙に浮かんでいるようなのです。しかし、その造形は実に安定しています。
有元はピエロ・デラ・フランチェスカに感動すると同時に、もうひとつの文化に影響を受けました。それは意外にも日本の平家納経や仏画でした。「東西の偉大な宗教画の共通点はキリストや仏といった偉大なものを大きく描く、姿かたちはどの時代も同じよう」といった事に深く共鳴します。
また、有元の制作を決定したのは古画のルールだけではなく、その技法面もありました。
明治以降、多くの画家が試行錯誤したのが、西洋の「油」絵と日本の墨や岩絵の具の「水」絵との違和感です。しかし、有元の見たフレスコ画は壁面に絵の具をしみこませる「水」絵です。「油」絵になじめなかった有元は、フレスコのような絵肌を岩絵の具で描くという技法を思いつくのです。確固としたデッサンと古画のルール、そして水絵の技法という3つが合わさって有元の世界が始まりました。
大学卒業~画壇デビュー
卒業後、3年間の会社員生活を経て画風は完成されていき、デビューの個展で「画壇のスター」「シンデレラ・ボーイ」と注目を集めます。
32歳の時、画壇の芥川賞といわれる安宅賞の審査員特別賞を受賞、翌年の「室内楽」で本命の安宅賞を受賞します。そこからは画壇の寵児となり多忙を極めました。
34歳の時に手掛けた木彫の影響もあって35歳頃には作風に変化があり、人物の袖がかなり大きく膨らんだりぐっと色調が落ち着いてきます。
つくづくと惜しいのは、若くして亡くなったことです。38歳の11月に検査入院し退院した後、代表作の「出現」を描いたのち、翌年の1月に再入院。2月に肝臓癌で亡くなっています。「出現」について画家本人は、「外からハッキリ判るような変化は何にもないだろう」と述べていますが、明らかにそれまでの絵とは違っていました。人体の表現ははち切れそうに膨らみ、線の後光や仏花のような花など明らかに何かが始まる様相を示しています。
28~38歳までの短い制作でも、美術史に伝説を残す制作をしたのは確かです。
「絵を見た人がこれは何だろうと言って想像し物語を紡いでくれる、そんな絵を描きたい」と言っていた有元。今も私たちは、その世界に引き込まれています。有元が心から愛した古びた色合いの絵肌を慈しみながら・・・。