2022.01.18
無名の陶工「河井寛次郎」
京都駅から清水寺へ行く途中、京都の街並みに溶け込むように町屋風の記念館がございます。そこは、柳宗悦、濱田庄司らと共に、日本に民芸品(日常的な暮らしで使用された手仕事の日用品)の美術的価値を広めた「河井寛次郎」の住まい兼仕事場を公開したもので、当時の暮らしがそのまま感じられるような場所です。
今回は用の美を求めた陶芸家「河井寛次郎」をご紹介させていただきます。
用の美を意識した作風を確立するまで
寛次郎は島根県の大工の家に生まれ、東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科へ入学。在校中は板谷波山の指導を受けました。師弟関係を重んじた当時の陶工の世界において、師をもたず教育機関において指導を受けた新世代の陶工でした。学年の2つ後輩には後に文化勲章を受章する濱田庄司がおり、卒業後は共に釉薬の研究に取り組んでいきました。
科学的研究の成果と東洋古陶磁の技法を駆使した華やかな寛次郎の作品は大いに好評を博します。しかし、思想家の柳宗悦が収集した李朝の陶磁器展を訪れた際、無名の陶工が作り出す、簡素で美しい作品に感銘を受けた寛次郎は、次第に自らの仕事に疑念を抱いていきました。そして濱田を介して柳と親交を結ぶや寛次郎はこれまでの作風を一変させ、「用の美」を意識した暮らしの中に溶け込むような品々を生み出していきました。
「民藝運動」を推進した立役者
1926年には柳宗悦、濱田庄司と共に「日本民芸美術館設立趣意書」の起草に参加し、「民藝運動」の中心的人物のひとりとして活躍、陶芸家の「バーナード・リーチ」や「富本憲吉」「金城次郎」、木工家の「黒田辰秋」や染色家の「芹沢銈介」など多くの工芸家と交流しました。とりわけ、版画家「棟方志功」は寬次郎から多くの影響を受けた一人で、棟方作品の背景にある仏教思想にもその一端が垣間見えます。また、棟方志功の版画作品「火の願ひ」は寛次郎の詩集を志功が版画で制作したもので親交の深さが伺えます。
古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」
この運動に深くかかわるようになりほどなくして寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになりました。
1955年には文化勲章を辞退、人間国宝や芸術院会員などの推挙も同様に辞退。そうして自らも無位無冠の陶工としての姿勢を貫き76歳でこの世を去りました。
寛次郎の作品は不器用さの中に美しさがあるように感じる時があります。
釉薬の魔術師とも称されるほど、大胆な色使い、また民芸品として以上の作風のダイナミックさ。一見単純に見える寛次郎の作品ではありますが、他の陶芸家には見られないような作陶をするので見方によっては新しい物のようにも感じることがあります。
そんな河井寛次郎の用の美の世界と当時の日常は河井寬次郎記念館で覗くことができます。