2020.08.04
近代日本画の発展に尽くした画家 菱田春草
柏の木の下でこちらを見据える、ふわふわとした毛の質感が愛らしい黒猫。背景の柏の木は伝統的な平面描法で描いてあるのに対し、黒猫は立体的でリアルに描かれており、その両者が一つの画面に収まっています。
当時眼病を患い失明寸前であったにもかかわらず、わずか一週間足らずで描き上げられた、菱田春草の『黒き猫』です。柔らかな黒猫の体は、なんども薄い墨でぼかしにぼかしを重ねて、ふんわりした毛を表現しました。
そして紙の裏面から墨を塗り猫の毛の微妙な濃淡まで表現し、さらに墨に胡粉を混ぜて鮮やさも出そうとしました。そんなこだわりのため、背景は1日で描き上げたのに対し、残りの4日はすべて猫の描写に捧げたそうです。
この一見すると輪郭線のない、ぼやっとした印象を受ける春草の画風は、日本画において西洋画のような色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した「朦朧体」と呼ばれる技法で描かれています。この技法を用いることで、それまでの日本画になかった柔らかな表現を描き出すことが出来ました。
伝統的な日本画に斬新な技法を導入した菱田春草
春草の画風は一貫していたわけではなく、時代により少しずつ変化していきました。
16歳で入学した東京美術学校時代に描かれた「鎌倉時代闘牛図」は、伝統的な大和絵の筆法による明確な輪郭線と、鮮やかな色彩が魅力的な作品です。
しかし一方で金泥による霞を描き、空間性と光の効果を表しています。硬軟自在な輪郭線による人物描写は鎌倉期の絵巻物にみられる手法であり、金泥の霞の描写は西洋美術の遠近法や陰影法です。春草は狩野派、大和絵、円山四条派などの日本の伝統的な手法を学ぶ一方で、岡倉天心の指導方針である、日本画の画面に西洋画のリアリティを導入することを望んでいました。これが春草の基本姿勢となっていきます。
天心の元で日本美術院を結成した後は、『帰樵』のように輪郭線を廃止して色彩のみで画面を構成し、空間性や写実性を表現しようと研究を重ねます。「朦朧体」の誕生です。この技法は日本国内では批判されましたが、明治37年に岡倉天心・横山大観と共にアメリカ、続いてヨーロッパへ渡り展覧会を開くと海外では高く評価され、これにより国内での評価も上がってきました。
外遊によって色彩の重要性を再認識した春草は、朦朧体の空間性を求めつつも、澄んだ色彩による作画を試み、朦朧体画風を完成させていきます。
晩年になると、空間性よりも「絵の面白味」を重視するようになり、輪郭線も復活して装飾的な作例を手がけるようになります。冒頭で紹介した『黒き猫』も、装飾性と写実性が一体となった画風になっています。
春草は知性派で、新たな実験を繰り返しながら先端の日本画を描こうとする絵描きだったそうです。36歳という若さで生涯を閉じた春草ですが、もし彼が長生きしていたら、もっと別の画風の作品が見られたかもしれませんね。